個性の在り方
えぇ、どうも。
僕はこの導入が好きで、なにかと使ったりしています。
最近放送していた、昭和元禄落語心中と言う作品で、八代目有楽亭八雲がする挨拶なんだけど、
見ればみんな好きになるかな。
あんな堅苦しい人が落語してる時は楽しそうな顔でやってたり苦しそうな顔でやってたり。
色々見所があってここでは書けないけど、落語に抵抗せず、暇があったらぜひ見てほしい。
さて、関係ない話でそれましたね。
...個性の在り方。
近頃はやれ無個性だやれ個性的だと他人をあーだこーだ批判したりなんだり。
個性って一体なんなんでしょうね。
僕も自分は個性的な人間だと思ってるけど、このくらいの人間なら探せば見つかるだろうね。
替えが効いてしまう。
そんなことにいちいち絶望なんかしてられないので、みんななんとなくそれを忘れていると思います。
世間一般で言う個性的って言うのはなに?
自分がどれだけ個性的だって思っていても、周りの人はなかなかそうは思ってくれない。
だってただよく喋るだけだったり、極端に喋らなかったり、頭がおかしい(ような素振りを見せる)だけだったり、
はっきり言ってそこらじゅう探せばいますよそんな奴。
いよいよ人の個性が埋もれていってしまう。
じゃあどうしたら個性と呼べるんだろう。
間違いなく言えるのは、自分で判断することじゃないってこと。
それは僕も知っていた。
それなら、どうすれば自分の個性を周りは認めてくれるのだろうか。
先日、会社の上司にこんなことを言われた。
「自由に生きて、好き勝手やってる人なんて、個性でもなんでもなく、ただのわがままだ」
まだ続きがあるけど、後術させてもらう。
自分のしたいことをして、自身の考えとかを言って、それを個性として認めてもらおうなんて甚だ図々しい。
多分そんな感じの意味だと思う。
思えば、若い人で(僕もその一人だけど)こんなことを言う人がいる。
「あれもダメ、これもダメって、そんなん個性もクソもない」
確かにいろいろダメって言われたら、自分を出せないような気がしてしまう。
こんな風に、〝僕の私の個性はそんなもんじゃない″って言っている人はおそらく沢山いるんだと思う。
原因を一方的に押し付ける考え方。
僕は全然好きになれないけど、もしかしたらそんな節もあるかも知れない。
そこでさっきの言葉の続き
「あれもダメこれもダメって言われて、どんだけ叩きのめしても滲み出てくる物があるなら、それが初めて個性と言われる」
完膚なきまでに叩きのめされた気分である。
確かに、制約があるだけで潰されてしまうなら、それは個性でもなんでもないなぁ。
個性って言うのは、なにを制限しても、なにをやらせても滲み出てしまう。
そう言うもんなんだなぁと認識しました。
例えばスポーツにしても、プレイスタイルって言うものがあるし、絵を描く人にも癖はある。
それは今まで生きてきた日々から作られるもので、おそらくそれらの人は、他のことをやらせても「ああ、この人っぽいなぁ」って気が付ける部分が見つかるのかも知れない。
それに気が付いた時、改めて僕らしいってなんなんだろうと。
今はまだわかりません。
ただ言いたいのは、あなたは決して個性的ではありません。
まだ気が付いてないあなたがいるはずです。
それを見つけてくれるのは他でもなく、周りの人間なのです。
自分はこうだと押し付けていては、いつまでたっても成長できませんよ。
...と、自分に言い聞かせています。
由良
おまけ
量産型って言葉をよく聞きます。
僕も多分その一人で、ファッションだったり、髪型だったり、趣味だったり
そう言ったものが量産型だとよく言われます。
確かによく似たような服装の人と出会います。
都心に出ればもっと沢山いると思います。
そう言う人は、無個性なのでしょうか。
ファッション的な用語でいうと、無個性をノームコアと呼びます。
個性的なファッションが流行りすぎて、逆に無個性なファッションが流行してしまう。
なんとも不思議な話だと思います。
量産型が多いのは、そういった個性の追求だったりするのです。
だから一言に「量産型」って言うのは浅はかと感じてしまうものなのです。
量産型と呼ばれる人にも知らずにとりあえず真似してやっている人も数多くいますが
少なくともその人たちは個性の追求のスタートラインくらいにはたっているわけです。