おとしもの

頭の中のものをぜんぶ形に出来たらいいなぁ

無知の知

えぇ、どうも。

 

今週は忙しい。

年末休みにするために、毎月やってる仕事がかなり前倒しで納期がほんと目の前でバタバタしています。

年末休みはしっかり休める。

そう思えばまあ頑張れるかもしれない。

年明けからまたすぐ忙しい事が決まってるんだけどさ...。

そして、最低限の食事は取ろうと思った今日でした。

 

と言うわけで今日は深そうで深くないコーナー。

哲学者でもなんでもない僕が学校の教科書で習っただけの知識で哲学者の言葉についておしゃべりしようと思います。

まああくまで、僕の解釈っていうか、このブログで一貫して言ってるけど、僕の意見は僕の意見なので、「何こいつもっともらしく支離滅裂なこと書いてるんだ」って思ったとしてもそれはチラシの裏にまとめて捨てておいてほしい。

まあしかし、今回は他人の解釈を借りることになりますがね。

 

 

有名な哲学者の1人、アリストテレス

そのアリストテレスを孫弟子としていたソクラテスと言う人がいた。

師匠の師匠と言ったところ。

そのソクラテスが生前気付かされた「無知の知」。

なんでも知っていると思っている人よりも、知らないことがあると知っている人の方が優れている(ソクラテスは自信が他人と違うと気がついた)。

例えば、日常的に存在するものも、人が名付けただけで、本当の名は神のみぞ知る。

そう考えた途端、私達はいかに無知であるかを気付かされる。

本当は何も知らないのに、自分たちの知る世界を全てだと錯覚してしまっている。

ソクラテスはそれらの人間に無知であることを知らしめることが天命(神命)だとして、活動し続けた。

 

 

僕から言わせれば、ソクラテスも無知だ。

天命などない。神が存在しないと証明された瞬間全てが覆る。

まあそんなの元も子もないけど。

ともかく、神がいなければ成立しないし、人に教えを説くと言うのはとことん無知でなければできないと僕は思う。

知らないことを教えるには、知らない人の立場を知らなければならないからね。

かく言う僕はさらに無知で愚かです。

それはわかってるし、ほとんどの知識が知ったかぶりで多少かじった程度のもの。

でも僕だけじゃなく、みんな無知。

現代の人はほとんどそれに気がついてる。

自分の知る世界は、自分が知っている限りでしかなく、その外側に世界があるとしたら、そこは未知。

僕はこういう話をするときによく使うことわざなんだけど、

井の中の蛙 大海を知らず」

まさに人は井の中の蛙なんだと僕は思う。

井の中の蛙は、外の世界があることも、そこに他にカエルがいることも知らない。

もしかしたら僕達は知らないだけで、外の世界があって、そこには、僕らを知る人間がいるのかもしれない。

さらに、それを僕達は神様だと思っているのかもしれない。

だとしたら神様は多分、笑ってるんだろうな。

だから神様は嫌いだし、いて欲しくない。

でも初詣にも毎年行くし、都合が悪くなれば神に祈るので、そこんとこよろしくねカミサマ。

 

人は誰しも井の中の蛙で、外側の世界があるかもしれないと思っていても、証明できないうちはどうしようもない。

ただ、やっぱり自覚をしてるかどうかは大きな差だと思う。

自分の限界を知る。自分の生きる世界を最大限知る。全て知ることは絶対にできないので、どこまで知っていて、どこから知らないのかを知る。

そうすれば、何を知るべきか、次に自分が何をするべきかが見えてくることがある。

全てを知った気になれば、満足し、その先に向上心などなくなる。

何を知らないのかを知らないと、知らぬところで馬鹿にされたり、不当な罵りや地位が揺らいだりする。

だから僕はまず、周りの人に、自分が愚かだってことに気がついて欲しい。

 

同じようなことで、大人っぽいとか、子供っぽいとか言うアレ。

何を基準にして言ってるのかさっぱりだけど、少なくとも大人はそんなくだらない格付けはしない人だと僕は思う。

と言うかそうであって欲しい。

自分自身を大人だって思ってる人ほど、心は全く成長してないことが多いし、そういう人は大抵周りの人を子供だと罵ったりしている。

ほんの生活の一部しか知らない人のことも子供だと決めつけ、それから評価を覆すのは重い石を持ち上げるが如し。

そういう人は自分を客観的に見てほしいものだ。

このブログ読んで少し自覚してくれる人がいればいいな。

 

なにより、自分の中の自分を知る。

これに限る。

自分が何者で...

ではなく、自分は何をすれば楽しくて、何をすれば悲しいのか。

それを自身に問う。

イメージ的には、もう一人自分がいるような感覚。

そのもう1人の自分が、間違ったことをすれば罵ってくれて、正しいことをすれば褒めてくれる。

全てを知った気になっている自分を嘲笑ってくれる。

ソクラテスが言う神様を自分自身で作り出す。

そうすれば、普段は気がつかないことにも気がついたりするんじゃないだろうか。

 

 

そんなことを思いながら、僕の人格は増えていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんちって

余談ですが、

孫弟子のアリストテレスは、ソクラテスの理論に否定的でした。

自分の師匠の師匠なのに。

アリストテレス

無知の知よりも、もっと大切なのは

今夜は何を食べようか。

次の休みは何をしようか。

と言うのが、生きることで重要としていて、

外の世界など見ずに、もっと身近なことの方が私たち人にとっては大切だとする。

 

素敵じゃないか。

 

 

由良

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ニコニコ動画の歌い手だったKKさん。

当時からいい声してるなぁと思って聞いていた。

今では上北兼という名前で活動されていて、ステキな曲をたくさん残してくれます。

どの曲もステキなのですが、その中でも比較的新しい曲を。

僕の言いたいことがいくつか歌詞になっています。

時間があればたくさんの曲を聴いてほしいです。

疲れた心には最高のクスリになると思います。

 

お酒

えぇ、どうも。

 

まだ見てくれてる人いるのかな。

いつもこういう日常系のことを投稿してるブロガーはすごいなぁって思ったくらいに最近書くネタが思いつかないのです。

内容も薄っぺらになってきてるような気もします。

しかしながら僕は続けることそのものに意味があると思っていますので、アクセス数0になってもめげずに書いていこうと思います。

こうやってのんびりブログが書けるのも、もしかしたら今だけなのかもしれないしね。

 

 

さてさて、

先日会社で忘年会がありまして、イタリアンの立食ビュッフェをいただきました。

腐っても大手の企業の子会社なわけですので、社員に飲み食いさせるくらいの余裕はあるみたいです。

当然、成人している僕は美味しくお酒をいただきまして、普段社内にいてもあまり話さないような他部署の人とお話ができました。

僕は基本的に人と話すのが好きなのですが、特に相手の話を聞くのが好きなんですよ。

しかし新人である僕はあれやこれと聞かれてしまい、めんどくさくなってきたので、離れた席で1人でビールを飲んでいました。

そこへ1人他部署の人が来て、僕に話しかけました。

その人とは普段ほとんど喋らないのですが、時々僕の近況を聞いてくれます。

もう慣れた?とか、お昼何食べた?とかそんな感じの。

そのときはなんだか話も弾んで、いろいろな話をしました。

好きなお酒の話から始まり、日本酒についても少し話してくれました。

その人は最近結婚されて、新婚旅行にも行っていました。

結婚についていろいろと話してくれましたが、結局僕には何もわからないままでした。

そんなこんなで結構話していたのですが、その人は他部署では部長レベルの人で、あまり気軽に話しかけて良いような人ではないんです。

それもこれと、良い感じにお酒があり、話しやすい場が作られていたお陰なんだなぁと思いました。

 

お酒は人と人とが交わる時に最高の潤滑油となり、洋画でもお酒を利用した「飲みニケーション」を手軽にこなすキャラクターが多数登場します。

僕もお酒は好きで、機会さえあれば飲みます。

酔っていると少し積極的に人と話したくなり、話していると楽しくなるのです。

もちろん1人で飲むのも好きです。

とことん悦に浸れる最高のクスリだと思ってます。

 

僕はあまり酔い潰れないのですが、昔酔いすぎて記憶が飛んでしまっていた時がある。

友達に「俺酔っ払って何してたの?」って聞いたら、「同じくらい酔ってた奴と漫才みたいなことして馬鹿笑いしてたと思ったら急に寝た」そうです。

同じ部屋に異性も何人かいたのに、酔った勢いで手も触れていない自分を褒めたい気分です。

ただ、記憶が飛んだり、嘔吐したりするのは、とてももったいないと思うので、自分の限界を知ってからは、そういった体験はないです。

あくまで完全にお酒を楽しみつつ、異性がいたらいたで、それなりのドキドキ感とかそういうのも楽しめたらいいなと思います。

 

お酒は勇気をくれる飲み物です。

同時に自分のタカを外してしまい失敗することもあります。

適度に飲んで普段話さないような事や話さないような人と楽しくおしゃべりが出来れば、最高の飲み物だと思います。

時々勇気をもらってアプローチしたり、お酒のおかげでいい雰囲気になるのも僕は悪い事じゃないと思ってるので、みんなも好きなお酒探して、たくさん飲んで欲しい。

 

というのも、

僕の周りでそんなにたくさん飲む人がいなくてとても寂しいのです。

ほんとは週に1回くらい飲み会やりたいくらい。

お金はかかるけど。

お酒を通じていろんな話をして、馬鹿騒ぎして、いろいろとスッキリした気持ちで次の日も働きたいなぁと。

 

 

というか、時々飲まなきゃやってらんない時もあるから、そういう時に付き合ってくれる人が増えればいいなと思います。

 

由良

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たまにはインストもいいかな。

いろんな人に勧めまくってますがぜひどうぞ。

インストの中では1番好きな曲で、疲れてると僕は聞くだけで涙が出てきます。

歌がないからこそ、想像力ばかりが働いて、聞くたびに違う気持ちになれます。

 

想像する力

えぇ、どうも。

 

 

朝起きるのが辛すぎる月曜日です。

昨夜、まともに食べるものが手近になかったので、つまみとお酒でお腹を膨れさせようとした

 ら、吐くほど気持ち悪くなって、そのまま寝てしまいました。

二日酔いなくてよかったほんと。

 

 

 

突然ですが、皆さんは音楽を聞きますよね。

映画やドラマ、バラエティ番組を見ますよね。

虫の声や人の話を聞きますよね。

空や海や街の景色も見ると思います。

僕はそれらのものを想像した時にいつも思うんだけど、人が想像したものって当たり前だけど脳内で再現されていますよね。

これめっちゃすごくない??

何言ってるのかわからないと思うから頑張って説明しますね。

 

頭の中に小さな自分がいるとしよう。

そいつはあなたの記憶の中から想像したものを見てくれて、聞いてくれる奴です。

それをイメージにして落としている。

言葉も文字も同じように、想像しようとしたら頭の中に思い浮かんできますよね。

実際には何も見ていないのに、頭の上の方にスクリーンあって、そこに映像が流れるような感覚になります。ぼくは。

めっちゃ説明下手くそだけどこれが限界...。

 

もうすこし突っ込んでいうと

夢を見ていること自体に疑問を持てば、ぼくの言ってるようなイメージに近づく気がする。

夢ってすごく不思議だと思いませんか。

実際にはないものを見て聞いて体験し、記憶となる。

目の前には何もないのに映像が流れる。

突拍子のないことが続くけど、例えばもう一度見ようと思っていた映画が観れるかもしれないって考えたらすごくお得だと思いません?

自分のタイプの異性が夢の中に現れてくれたらすごくいいと思いません?

夢をコントロール出来たらすごく便利。

 

でもみんな、夢じゃないけど、似たようなことはしてるんですよ。

自分の思い描いたものを頭の中で再現してる。

実際に目の前にあるものや聞こえるものが邪魔してうまく再現できないだけなんです。

 

ついこの間も通勤時間にいつも愛用しているイヤホンを家に置いてきてしまい、ただでさえ憂鬱な満員電車がさらなる地獄と化していました。

そんな時もめげずに想像しましたとも。

雑念は多かったけど、自分の世界に入り込めた時は本当に音楽を聴いているような気持ちになります。

馬鹿みたいだけど。

多分映像でも同じことができるんじゃないかな。

 

科学も発展していて、それらの現象を解明して「可視化」する研究が存在する。

事実、頭の中に浮かべたものを画像化することに成功した研究者がいます。(しかも日本人)

脳に行く血液の状況とかなんとかって書いてあったけど、気になったら「記憶の可視化」って調べれば出て来るかな。

その時の研究で面白いのが、人は情報の一部しか記憶にないということ。

例えば始めて食べに行ったお店の料理や一緒に来た人は覚えているけど、テーブルやスプーンの形や店員さん、一緒に来た人が履いていた靴まで覚えている人はすごく少ない。

それを画像化した時、料理とか一緒にいる人の顔と服の色ははっきりわかるのに、それ以外がぼんやりしていて、はっきり映らない。 

それくらい曖昧に記憶していて、必要な情報しか得ていないみたいです。

なので記憶を画像にした場合、結構もやぁっとしたものしか出来ないです。

覚えていないことは画像に出来ない。

でも、どうにか補ったり、捏造したりはするらしいです。

今のところ「あの時のあれなんだっけ」ってなった時はあまり役に立たない技術。

 

逆手にとれば、自分が想像したものを画像に変えられると言うこと。

例えば、ドラえもんの顔とピカチュウの体で新しいキャラクターを作ることができる。

この技術が発達してしまえば、誰でも簡単にクリエイターとなれてしまう。

音楽もそうだ。

誰もが頭の中に描いたり、鼻歌で思いついたまま、楽器が出来ないから諦めていたメロディを書き起こして、データにしてくれるかもしれない。

iphoneのおかげで今もすでに手頃にクリエイターになれて、チャンスはつかみやすい。

しかしそれがさらに加速するんじゃないかと僕は思ってます。

きっとかなり先の話だと思いますが。

 

 

 

僕がこの技術のすごいと思ったのは、将来的に人の記憶をデータ化できるところだ。

それを映像としてみたり、うまくいけば、人の記憶として埋め込むこともできるかもしれない。

例えば、記憶を無くした人の記憶がデータとしてバックアップされていれば、なんとか元に戻れる。

あとは、目が見えない人の頭の中に映像が流せたり、耳が聞こえない人にも音楽を聴かせることが出来るかもしれない。

そうなれば、今よりいい世の中になるかもしれない。

 

ただ同じくらい恐ろしいと思うのは、記憶を埋め込めた時、それが自分の記憶なのか、埋め込んだ記憶なのかわからなくなるかもしれないと言うこと。

頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。

自分の記憶を疑うような世界にはならないでほしいと思いながら、なんだかんだそれもそれで楽しそうと少しワクワクしてます。

 

 

 

 

 

 

由良

 

 

 

 

 

 

 

 

これ聞いて街中を歩いていると、悦に浸れるというか、とてもいい気分になります。

ただ、都心部に暮らす寂しさとか、遠くの雑踏とか、自分と遠くの世界を羨んで見ているような哀愁感があります。

よろしければ。

 

冬の寒さ

えぇ、どうも。

ついに12月に突入してしまい、年末を意識させられてしまいます。

もう一年経ったのかと思えて、やはり時の流れについていけてない気分。

のんびりと過ごしすぎている気がするけど、忙しなく生きていくよりはずっといい。

 

年末とか言ったけど、それよりも先にクリスマスがある。

子供の時は楽しみで仕方がない日だったのでしょう。

大人になるにつれてだんだん嫌いになっているのは僕だけでしょうか。

家族のイベントだったはずのクリスマスが、気がついたら恋人のイベントになっている。

歳を重ねて、サンタクロースの存在が危ぶまれ、気がついたらクリスマスは「恋人と過ごすもの」になっている。

サンタさんどこいった。

全国にプレゼントを配って回るサンタさんの気持ちを考えると泣けてくる。

 

クリスマスが終われば年越し。

そしてバレンタインホワイトデー。

なんとなくイベント目白押しだ。

しかも恋人のイベントが特に集中している気がする。

そのせいか、冬は恋人と過ごす季節のような気さえする。

寒いから人肌恋しくもなるし、クリスマスだから恋人も欲しくなる。

そうやって即席麺のようなカップルが誕生して、春くらいにフェードアウトする。

僕はこれが冬の風物詩なのかもしれないと思い始めた。

もちろん嘘なんだけど。

こんな妬ましい内容を書いているので察しの通り、今年の僕は風通しの良い冬が過ごせそうです。

恋人が欲しいと思わなくもないけど、出来たら出来たできっといろいろ苦労するんだろうなぁと思うと現状維持でいいと思えてしまうナマケモノ科の人間です。

それに、冬の寂しさに負けて人と付き合うのは嫌だなぁとも思います。

それこそ即席カップルになってしまう。

なので今年の冬は身軽に過ごそうと思っている。

 

散々冬のカップルについて、批判的な話ばかりしてきたが、僕は冬自体はとても好きだ。

1番好きな季節は秋だけど。

冬は寒くて嫌いな人が多いとは思うけど、僕はその寒さが好き。

寒空の下で、さみいいいって言いながらあったかいコーヒーを飲みながらブルブル震えて白い息を吐くのが好き。

なにより、ホットコーヒーがとんでもなく美味しく感じる。

1番美味しくホットコーヒーが飲めるから、冬が好きだといっても過言ではない。

あとは人との距離が縮まるところも好き。

冬のカップルについていろいろいったけど、恋の駆け引きというか、そういうドキドキは嫌いじゃない。

 

 

いよいよ冬本番になって、マフラー必須の寒さになってきました。

マフラーやスヌードに顔をうずめたり、時々顔を出して白い息を吐く。

子供っぽいけど、僕はそんな冬を楽しみます。

恋人と過ごす人はどうか、即席となって馬鹿にされないような付き合い方ができるといいですね。

 

 

由良

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕にとって冬の曲といえばこれって思った曲がYouTubeになかったので他の曲。

いろんな思い出があり、好きでもあり嫌いな曲です。

切なくなってしまいますが、ウィンターソングって結構切ないものが多いし...。

読み物「おばあちゃん」

.

.

.

空が青いのにも理由がある。
地球が丸いのにも理由がある。
心臓が動くのにも、お金が大事なのも、全部理由がある。
僕のおばあちゃんはなんでも知っていた。
「どうしてアリは小さいの?」
「それはね、みんなで協力するためだよ。アリさんは1人で出来ないことがたくさんあるから、みんなで助け合う生き物なの」
「どうしてご飯は美味しいの?」
「それはね、作った人の優しさで出来ているからよ」
「じゃあトマトは優しさがないの?」
「あるわよちゃんと。よく味わえばわかるわ」
僕の質問になんでも答えてくれた。
両親がいない僕は、ずっとおばあちゃんに育てられて来た。
おばあちゃんは1人でいる時、時々寂しそうな顔をする。
「おばあちゃん元気ないね。パパがいないから?」
「元気いっぱいよ。私はずっと幸せだもの」
「どうして?パパはいないのに?」
「そうね。それはもうすこし大人になったらわかるのよ」
あまり覚えていないが、おばあちゃんが唯一答えてくれなかったことだ。
おばあちゃんはなぜ幸せなのだろうか。
成長するにつれて、話す機会が減って来た。
そして、おばあちゃんは僕が中学生になったころから、認知症になった。
僕が大学に入学したころには僕のことも覚えてないみたいだ。
なんでも知っていたおばあちゃんは、僕の名前さえも覚えることが出来なくなったらしい。
それどころか、時々僕を父の名前で呼ぶ。
「あきひろ、孫の顔はいつ見れるんだい?」
はっきり言って嫌な気持ちになる。
父は孫の顔を見せるや否やどこかへ消えてしまったらしい。
おばあちゃんの話によると、海外で荒稼ぎしているそうだ。
でも僕は、塀の中にいると思っている。
母の葬式はあったらしいが、父の葬式の話も、海外にいる話もおばあちゃん以外から聞いたことがない。
もし荒稼ぎをしているなら、生活保護を受けていることに説明がつかない。
何をしたのかは知らないが、捕まっているであろう父と同じに扱われるのはとにかくいい気がしない。
「おにいさん、ご飯はまだか看護婦さんに言っていただけないかしら」
「ご飯ならさっき食べたよおばあちゃん」
「そうだったかしら」
このやり取りもだいたい週に一度はしていた。
僕の名前はきっともう記憶の中に残っていないのだろう。
何度名乗っても知らない人だと思われている。
この頃にはもうかなり衰弱していた。
僕もずっとおばあちゃんに頼って生きてきた。
だからこの状況はすごく辛く感じる。
どう接していいかもわからないし、生きていく力も意味も失いかけていた。
「おにいさん、空がどうして青いか知ってる?」
「空気中のゴミクズに太陽の光の中の青い成分だけが反射しているからだよ」
「そうだったかしら」
記憶の引き出しもカラになってきているようだ。
僕は引き取ってもらった家庭のために、たくさん勉強をしてきた。
将来は税理士か弁護士になるつもりだ。
認知症についても勉強はしてきたが、大抵の場合はだんだんと衰弱していくか、死に至る病にかかり、終わりを迎えるらしい。
僕は次第に疲れてきたみたいだ。
しかし看護婦さんたちの事を思うとあまり無下にはできない。

見舞いにくるのは僕だけではなかった。
会うたびに嫌そうな顔をしながらおばあちゃんをみる叔母。
僕を引き取ってくれたはいいが、おばあちゃんにはすごく冷たい。
「どうしてそんなこともできないの!?」
「ごめんなさい、ひろ子姉さん」
「私はひろ子さんじゃないって何度言えばわかるの?!」
認知症患者には酷なやりとりだ。
ちなみにひろ子さんはおばあちゃんのお姉さん。
おばあちゃんはいま、自分を40代くらいだと思い込んでるらしい。
わからないものなのだろうか。

聞いた話によると、僕がいない間にほかに来ていた人がいたらしい。
その人は、おばあちゃんの病室に来てからしばらく謝り続けたそうだ。
それ以外はほとんど人はこない。

おばあちゃんとの会話も毎日同じになって来た。
「おにいさん、空がどうして青いか知ってる?」
「...」
僕はもう随分疲れていて、病室のベッドの横で眺めていることしかできなかった。
考えることといえば、この先いきていて、楽しいことが待っているのだろうかと言う自問。
何もかもに疲れ果ててしまった。
「ねえおにいさん。知ってるの?」
「知らないよ」
「そう。実はね、私は知ってるのよ」
だんだん面倒になって来たせいか、素っ気なく返してしまった。
少し反省した僕は
「...どうして青いの?」
と聞いた。
おばあちゃんは答えた。
「それはね、いつ見ても穏やかな気持ちになれるからよ」
僕はハッとなった。
窓から空を見てみると、薄ぼんやりとした雲がかかっていて、青くない上に、綺麗とは呼べなかった。
それでもなんだか、気付かされた気がした。

程なくして、おばあちゃんは亡くなった。
叔母とその家族と僕で看取った。
僕には、ただ満足そうに眠っただけにも見えた。
それから僕は、夢ができた。
先生になって、勉強以外のことを教えたい。
「本当に大切なのは、見方を変えれば、世界が変わるという事」
僕はそう言うと、子供たちとその保護者たちの顔を見回した。
「僕の人生はあまり恵まれたものじゃないけど、不幸だと思ったことはありません。僕はずっと幸せです。それはおばあちゃんがいたからでも、学校の先生になれたからでもありません」
「じゃあなあに??」
クラスのお調子者が手を上げて言った。
僕はこみ上げて来た笑いを堪えた。
しっかりと彼の目を見て
「...それはね、もう少し大人になったらわかることだよ」
彼は僕の目をまっすぐに見ていた。
彼には僕がどんな風に映っているだろうか。
何かを伝えられただろうか。

 

 

 


「幸福とは心の状態を言う。物事をどう見るかだ。」
ーーーーウォルト・ディズニー

 

 

 

お疲れ様です。

ここまで読んでくれてありがとう。

さくっと終わらせる予定が何だかんだこんな長さに...。

イメージとしては、「ファイトクラブ」とか村上春樹の「トニー滝谷」のような一人称語り口調っぽくしてみました。

なのであえて時系列を捉えづらくしています。

少し説明すれば、主人公が過去を振り返りながら前を向く、と言ったイメージですね。

僕はおばあちゃんとの思い出はほとんどないです。

なので、こんなおばあちゃんだったらいいな、と思いながら書いていました。

なんとなく伝えたいことをまとめたつもりなんですが、うまく伝わるのか自信がなかったので、ウォルトさんの言葉を借りました。

僕はこんなたいそうな思想はありませんが、気持ちの持ちようでなんとでもなってしまうんだとは思っています。

僕は犬が怖くて苦手なのですが、このおばあちゃんに

「犬が怖いのをどうすればいいか」

と聞けば

「犬を怖がるから怖いのよ。犬はとても可愛いから、たっぷり可愛がってあげなさい」

と言ってくれそうです。

 

前回のものに比べたら、インパクトに欠ける部分とかはたくさんあると思いますが、それでも何か読んだ人に残ってくれればいいなと思います。

 

前回の→読み物「タネ」 - おとしもの

 

それではまた。

 

 

 

 

 

 

由良

 

風景

えぇ、どうも。

 

更新がだんだんとポツリポツリになって来ましたね。

でも大丈夫。飽きたわけじゃないんだ。

単純に書くネタがあまり無いってだけなんだ。

今回もそんなしっかりした内容では無いですが、お付き合いよろしくお願いします。

 

 

中学生の時からよく訪れていた町にほんの2ヶ月ぶりくらいに来た。

そこはサブカルの町と言われていて、若者が多いが、土地柄かご年配の方もいる。

都市部に抜けでようとしているのに下町っぽさがどうしても抜けていかないこの街がすごく好きで、よく行っていた。

最近はなんとなく足が遠のいていて、前ほど頻繁に行かなくなった。

下手したら週に一回くらい行っていたが、本当に月に一度行くかどうかになってしまった。

今日はその町について軽くお話しします。

 

僕の住む街からアクセスが非常に楽で、人もそんなに多くないので、歩きやすい。

色々な店があって歩いているだけですごく楽しくなる。

そんな理由で通っていたのですが、最近じわじわと開発が進んでいる。

昔は開かずの踏み切りと呼ばれていた、20分くらいあかない踏み切りが名物だったのですが、電車は地下に行った。

線路のあったところにスペースが出来て、道やいろいろな店が並ぶようになった。

久しぶりに行くたびに町の表層が変わっているのを感じていて、行くたびに新しい店を見つける。

新鮮な気持ちになるし、生活しやすくもなる。

 

 

2ヶ月ぶりに来た今日は知らない店を3件見つけて、地下に作る新しく線路も出来てきていた。

通い慣れた店もリニューアルしており、どこに何があるのかの情報をアップデートしなければならない。

すぐに順応出来ずにいるんだけど、きっとまた次来た時に新しいものが出来ているんだろうなぁと思う。

別に寂しくはない、...こともない。

置いて行かれるような感じはする。

僕の好きな町じゃなくなって行くような感じもする。

多分そうはならないと思うけど。

でも猛スピードで変化して行く町についていけてないのは間違いない。

どんな町になるんだろうという期待と不安が入り混じった感じ。

どうしても僕は新しいものが好きなんだけど、変わらないものも好きみたい。

僕の知らないうちに、知らないものになってしまうのが怖い。

でも新鮮さは常に求めてしまう。

わがままなんだけど、みんなも共感してくれないかなぁなんて思ってます。

 

 

見慣れた風景が変わってく時の複雑な心境。

町だけじゃなくて、人や物にも言えると思う。

きっと本質は変わらないと思うので、変わっていく様を楽しく眺めていられたらいいなぁと思います。

 

 

 

 

 

由良

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日はちょっとだけ懐かしい曲。

いつでも背中を押してくれる歌なんですが、僕はこの歌に様々な思い出があってとても好きです。

良ければどうぞ。

 

 

選ぶ権利

えぇ、どうも。

 

新しいことを始めるにあたり、それがどんなものかで何が必要かを精査し、いざ始まってからも研究。

やがてライフワークとなっていく。

僕の場合それがどのくらい続くのかがいつも心配で、面倒だと感じたり、孤独だと感じたらすぐに飽きてしまう。

長続きしている趣味ってなんだろうなぁと考えても、すぐにあがってこないあたり、飽き性なんだと思う。

 

そんなわけで今週もまた月曜日からスタートしました。

勤労感謝の日が間に挟まっていて、僕はしっかりと休めるので今週は比較的楽ですね。

しかし働きたくはないので、そこそこに無気力な仕事っぷりを会社にお届けしたいと思います。

そんな枯渇した僕のライフスタイルに華を添えてくれるのが音楽なのですが、最近その音楽を聴くことそのものに対して感じたことがあるので、ここに落として行きたいと思います。

 

文明の発達は偉大です。

便利な生活が当たり前になってきていることでしょう。

だけどその便利さは本当にいいことだけなのでしょうか。

 スマートフォン - おとしもの

この記事でも言ってますが、便利さとは裏腹に

 寂しさもあると僕は思います。

人は新しいやり方を覚えると、以前のやり方がわからなくなりやすいと言われています。

僕は以前ひもの結び方が下手くそだったのですが、その時のやり方をいま思い出そうとしても全く思い出せません。

それと同じように、便利さを知るあまり、不便さを忘れてしまう。

以前感じていた不便だと思う心が思い出せなくなる。

不便だった時はどんな感じだったんだろうか。

そんなことを考えていた。

 

まだガラケーだったころ、メールでやりとりしていた。

LINEは無くて、一斉送信で会話していたこともあった。

iPhoneが普及し始めても、しばらくガラケーだった僕は、同じくガラケーを使っていた友達といつまでもメールでやりとりしていた。懐かしい。

 

僕の幼い頃、音楽はミニディスクかコンパクトディスクで売られていた。

聴くためにはラジカセかまだスペックの低いパソコンしかなかった。

僕の家にはまだパソコンがなかったため、古いステレオラジカセで聴くことが普通だった。

1番古い記憶では母が昔好きだったサザンオールスターズのTUNAMIを聞いていた。

それがたぶん始めて自分でラジカセを動かした日で始めて自分で書いた音楽だと思う。

当時あまり友達も多くなかった僕は、ラジカセを動かして音楽を聴く楽しさを覚えた。

次第に新しい曲を取り入れたくなったが、僕は昔から、まともに小遣いというのをもらったことがない。

なのでしばらくは母の好きなサザンとスピッツを聴いていた。

中学生に上がり、ごく稀に親戚に会えばもらえるなけなしのお金でCDを買った。

初めてのCD。

当時大流行していた電車男の主題歌である、サンボマスター世界はそれを愛と呼ぶんだぜ

中古の500円のCDだったんだけど、初めて自分で選んで買ったCDにテンションは上がりまくっていた。

なんかも入って古くなったラジカセをなんとか奮い立たせて、CDをセット。

ものすごく高揚していたと思う。

古いせいで、再生ボタンを押してもなかなか再生されなくて、すごく緊張していたのもおぼえている。

そしていざ流れてからは最高の気分だった。

 

音楽が好きな人ならそんな思い出がもしかしたらあるのかもしれない。

初めて買ったCDはなんですか?

またはMDは?レコードは?

帰り道もワクワクしすぎてスキップしてたかもしれない。

そのくらい僕にとって劇的な瞬間だった。

 

じゃあ今は?

youtubeで音楽が聴ける。

CDは売れない。

世間がCDにかける情熱も昔に比べて薄くなった。

生産する側も何となく嫌気がさしていることだろう。

かくいう僕もCDを買うよりもyoutubeApple Musicなどのアプリで聴くことが多い。

膨大な曲をインターネットでちょっとだけ聴き、気に入ったらダウンロード。

いまやライブラリにどのくらい曲が入っているのかよくわかっていない。

どれも好きな曲だし、昔に比べて手早く多くの曲を聴くようになった。

便利だ。

とても便利。

 

ある時の話。

通勤時間に音楽を聞いていることが多いんだけど、作業時間でも度々音楽をかける。

そんなふとした作業中に、好きなアーティストのプレイリストをかけていた。

僕はそのアーティストの1番好きな曲を、作業に夢中で聞き逃してしまった。

もっと言えば、聞き流してしまった。

そんなに慌てるようなことじゃない?

僕はそうは思わなかった。

僕は以前、この曲を聞くたびに感動して、歌詞を見ずに完璧に暗記するほどにリピートした。

CDだって持っている。

でも、それがいま、ただの音楽の1つになってしまっているように感じた。

昔は一度買ったCDを飽きるほど聞いて、一つ一つの歌詞やメロディを吟味して、感じていたと思う。

たった一枚の円盤でよく味わっていたと思う。

なのに今は贅沢にもたくさんの曲が聴けてしまう。

全ての楽曲が等しく埋れていくような感覚だった。

とても虚しい気持ちになった。

 

僕にとって音楽は日常に華を添えてくれるもの。

でもそれが、音楽全てに言えるようになってしまった。

好きな曲を聴くんじゃなくて、気に入った曲を何となく"流して聞いている"。

おかげで僕の通勤時間は楽しくなっている。

贅沢な音楽の使い方だ。

便利さの裏にやはり一つ一つの想いみたいなものが薄れている気がしてる。

 

現在は昔に比べて多くの選択肢があると思います。

その全てを選ぶこともできるかもしれません。

でもその選択肢の多さが迷いを生んだり、希薄さを生んでしまうのかもしれません。

僕はそう思いました。

それでも、僕は多くの音楽を出来るだけ味わいたい。

広く深く味わえたらいいなと思っています。

 

 

 

 

 

 

由良

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事に登場した、聞き流してしまった僕が最も好きな曲です。

普段載せている曲とは違った、少し熱っぽい、いわゆるエモバンドの曲なんですが、僕にはそこらのエモバンドと同じには見えていなくて、聞いていると、ひねりのない真っ直ぐな感情で殴りつけられているような気持ちになります。

気に入ってくれることを祈っています。