おとしもの

頭の中のものをぜんぶ形に出来たらいいなぁ

えぇ、どうも。

今日は関東で雪が降ってるみたいです。

外せない仕事があるため、8時前まで働いたのですが、弊社社員は9割9分帰りました。

そのくらいの雪ですね。

せっかくなので僕ははしゃいで帰ることにしたのですが、お陰で手がかじかんで字がうまく打てません。

友達とはしゃげたらもっと楽しいんだろうけど、1人でもありえないほど楽しめたので、そのままのテンションで更新しています笑

 

都内で雪が降ることは珍しくはないのですが、積もることはたまにしかないのです。

なのでつもった時は大混乱。

交通機関は壊滅。

それを見越したホワイトな企業は早めに帰ったり、休んだりします。

しかしサービス業はそうはいかないんですよね。

悲しいけど、僕はこんな大雪の日でもコンビニが空いてるととても嬉しいと思ってしまいます。

皆さんお疲れ様です。

そして何より、社畜を家に返すために頑張ってる駅員さんには本当に頭が上がりません。

ありがとう。

電車を利用している誰よりも遅い帰りになるし遅れててずっと謝り続けててもう不憫としか言いようがない。

たぶん彼らは僕の5年分の謝罪を1日でしてると思う。

 

雪ってたぶんたまにふるから僕は楽しめるんだと思います。

何より、いつもは味わえない気分になれるという、特別な感情が僕を駆り立ててるんだと思う。

こういう時こそ大人の男は少年の心を持ってるべきだって僕は思います。

社会に出たら死ぬほど大人の真似事させられるんだからね...。

こういう時くらいはしゃいだって許されるでしょうと自分に言い訳をしています。

楽しければなんでもいいよね。

 

 

ほんとは別の記事更新しようとしてたんですが、あまりの雪にテンションを持っていかれてしまいました。

かなりさっぱりしているし、どうでもいいことしか書いてないけど、これで終わります。

 

またね。

 

 

 

 

由良

 

 

 

自信

ええ、どうも。

 

学生はもうすぐセンター試験ですね。

この時期になると、落ちるとか滑るとか言うワードに敏感になると思います。

僕は全く気にしてないのですが、もし僕が落ちる滑るを連呼したことで受験に失敗したと思うのなら、僕を責めてくれてかまいません。

それも無視すると思いますが。

僕も一応センター試験受けましたが、希望の大学には確か届いてなかった気がする。

ちゃんと勉強はするべきですね。

 

 

さてさて

受験や試験など、自分の力を試される機会で、 自信と言うのはとても大事です。

自分が出来ると思わないと成功はなかなかしないと思います。

ですが、今日はそんな大それた話でも、誰かに自信をつけてもらう話もしません。

力を試す場ではなく、もっと身近な話。

 

このブログでも良く言っているのですが、人には考え方がそれぞれあって、誰かにとっても正解も誰かにとっては間違いだったりする。

また、必ずしも正解である必要はなく、自信が納得していれば、人と違う意見にも価値がある。

世の中も割とそういう流れが来ていて、昔に比べたらかなり考え方に多様性がある時代だと思う。

他人は他人で、自分は自分。

人として互いに尊重し合うことの出来る人が増えてきている気がする。

なんて素敵な世界だ。

 

しかし、同じように、他人は他人で自分は自分。

自分が嫌だった時に怒りをあらわにして相手を叩きのめそうとする人もいる。

自己中心的な行動。

これもたぶん、多様性が生み出したものだと思う。

自分が絶対的に正しい、他人のやり方が間違っている、だから自分はこんなにも苦労している。

そういう考え方。

怖くて近寄りたくないね、そんな人。

 

 

さてこれらのことを踏まえて、

どう生きていくのが最も生きやすいか、世渡り上手か。

無難なのか。

自分で言うのも何だけど、僕は思想的に無難な生き方をしていると思う。

どこが?とか、何が?と言う疑問が湧いてきた人には申し訳ないが、ただ僕がそうだと信じたいだけだ。

確固たる自信もクソもない。

ただ一つ言えるのは、僕はほとんど断言しないと言うことだ。

これは現代を生きる上でかなり重要なことだと僕は思っている。

多様な価値観が存在する世界で、自分の正しいものだけを声高に叫んでいても、一部の人しか聞き入れてもらえないでしょう。

受け入れられない人がほとんどなのだから。

しかし、「Aということがあるんだけど、Bもある。かと言ってCも間違いじゃない。」と言うような、どの視点からの意見もカバーするような語りは最近とても聞き入れやすい。

もちろん、ただ優柔不断なわけではなく、それぞれの長所や短所をまとめた上で、自分の意見を混ぜていく。

あくまで他の意見を知った上で、僕なら私ならこう考えるだろうと言う、ある意味言い訳的な部分が見え隠れする。

僕の場合、○○だと思う、○○な気がするというように、あまり断言をしてきていないつもりだ。

これらの話し方は基本的に「個人的には」や「他の意見も知っていて敢えて」のような意味を含んでいる。

あくまで他者を否定することなく、他者に意見をぶつける。

言い切られてしまったら、他者は自己肯定感を得られない。

自分は間違っているのかもしれないと考えてしまう。

はたまた、自分のことを全く理解してくれないとさえ思うかもしれない。

これでは多様性にかける上に世渡りもうまくできない、無難とは言えない。

ただこれも言い切ってしまうと、言い切る派の人は自己肯定感が得られないので、あくまでこれも僕の意見だと言うことは認識しておいてほしい。

自信があることはとても良いことだし、その自信が脅かされるような間違いがあっても、それに気づけたなら儲けもんだと思う。

僕は自分に自信がないので、いつも言い訳的な言い方として、言い切ることはない。

非常に肩身の狭い言葉遣いをしてる。

 

しかしながら、こうした話し方をする人は最近とても多く感じられる。

世の中は●●かもしれないけど「自分の意見」は○○だ、と言うように、他人を絶対的に否定せず、自分の考え方に共感してもらうためだけの発言。

自分が間違いじゃないと認められたいがために、否定的な言葉を使わずに、他者に自己肯定感を与える。

そして共感してもらえた時、承認欲求が満たされる。

なんだ、やっぱ優しい世界だね。

誰も損してないような気がする。

ただ、承認欲求を満たすために、だんだんと世論に流されてしまう人もいなくはない。

そしてだんだんと固執した考え方も生まれたり、固定概念にとらわれはじめ、否定的で強い言葉を使うようになる。

ごく一部の人だけだけどね。

 

 

いまのこうした、断言できない人が増えた背景を僕なりに考えてみた。

なぜ断言が出来ないのか。

予測を3つ立てる。

まず1つめに、断言してしまうと、共感を得る可能性が減ってしまうからだ。

偏った意見というのは同調されづらく、扱いづらいからだ。

2つめは、おそらくこれが1番大きな原因だと思うけど、もしも間違っていた時、取り返しがつかなくなることがあるからだ。

よくあるのは、クレームやネットの炎上。

これらは、自己やそれに近い何かを強く否定された時に最も起こりやすいことで、それを避けるためには、断言せずひっそりと自分の意見を小さな声でつぶやくのだ。

それで一部の人から共感されれば良いのだから。

最後にそもそも自信がないから。

2つめにも付随するけど、確信がないことを発言するのはとても恐ろしい。

特に今の時代、多様性のある考え方はクレーマーにもそうだ。

発言の自由は制御が効かなくなっていて、自分が気に食わなければ自分のためだけに世界を変えても良いとさえ思っているだろう。

最近も「そんなクレーム言い出したらキリがないな」っていうクレームが多くて、生きる上での自由度が低い。

やれることの少ないテレビはつまらなくなり、若者のテレビ離れというのも納得ができる。

多様性が増えてるはずなのに、自由度が低い世界。

なんとも生きづらい世界だ。

優しいはずなのに。

 

 

 

最後に、

最近はインターネットが便利になりすぎていて、誰の目にも個人の発言が目につくようになってしまった。

そんな中、無難に生きていくには、見えない誰かに気を使わなければならない。

常に誰かの視点に立って考え、そんな自分を俯瞰的に見て、自分の主張がいよいよ減っていく。

他人に気を使うあまり、いっそAIの方が人間的になっていくんじゃなかろうかと思うばかりです。

そんなことにも負けず、たとえ口では意見を捻じ曲げようと、あなた自身の根底にある芯のようなものだけは失わないように、上手いこと生きていけたらいいなと思います。

たぶん本当の世渡り上手って言うのは、他人の意見に流されたふりをしながら、「この人は一体何を言ってるんだろう笑」と心で嘲笑できる人だと僕は思っています。

 

 

 

 

 

 

 

由良

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二度目の登場の古川本舗です。

前はボカロだったけど、この人の声もとても温かみがあってすごくいいですね。

眠る前に聞くとびっくりするほどぐっすり眠れます。

 

影響を受けてきたものたち

えぇ、どうも。

 

社会人の方は先週からすでに仕事が始まっていたり、年末年始関係なく働いている方もいますが、今日から仕事初めという方も少なくないと思います。

学生の方はおそらく今日から学校ですよね。

そんなわけで電車の中が非常に混雑していて、「あー、またもと通りの日常がやってきたなぁ」と感じました。

僕の会社の人もおそらくほぼ全員出勤していて、新年の挨拶的なものをしていたのですが、僕は買い出ししてからの出社だったのでまともに挨拶ができないと言う悲しい一年の始まりとなりました。

 

さてさて

今日はなんとなく、僕がこれまで影響を受けてきたものについてお話ししていこうと思います。

どのようにして今の僕があるのか。

どうしていま僕はこうなっているのか。

そんな感じのことを書きます。

興味ない人100割だとは思うので、僕に1ミリも興味がない人は読まないほうがいいと思います。

2500字以上もあるので。。。

 

 

幼少期から小学校低学年くらいまでは髪の毛がものすごくうねうねしていていわゆる天然パーマってところ以外はいたって普通の運動神経がいい男の子でした。

あとはその歳にしてはすごい大食いだったことくらい。

小学四年になった時、ゲームが大好きな友達が出来てしまい、頻繁に遊びに行くようになった。

負けず嫌いだったので、そいつの家にあったゲームでそいつより強くなってやろうって気持ちがすごく強かった思い出があります。

その意地のせいで、通い続け、運動する量はだんだんと減る一方で、食べる量が変わらない。

おそらく人生で1番太っていた時期だと思う。

(ギリギリぽっちゃりと言えるくらいの太り方)

そのまま小学校生活を駆け抜けると思いきや、再び激しく運動をし始める。

動けるデブみたいな感じでした。

小学6年くらいになると、ありえないほどジャンプコミックスにはまっていた。

ナルトワンピースディーグレイマンを集めていて、漫画クラブみたいなのに所属していた。

下手ではあったが、オリジナルキャラの絵も描いたりしていた。

その時期にとんでもないブームを巻き起こした漫画がある。

今でもアメリカなどで社会問題になる漫画。

デスノート

最近になって気がついたけれど、僕の人生においてこれほどまでに影響をうけた漫画は他に無いと思う。

熱狂的なファンではないが、この漫画によって変えられた考え方や選択肢が全く別のものになったと思う。

中学生の時もデスノート好きな友達が周りにいたせいか、時々思い出してはデスノートのアニメを見ていた。

何にそんなに影響を受けたのかって、やはり物語だ。

ほぼ勧善懲悪ばかり見てきたはずの人生も、一瞬にして闇に飲まれたような感覚だった。

さらに言えば、絵が下手でも漫画家になりたいと言う夢を、大葉つぐみは叶えていた。

のちにバクマンが発売されるが、大葉つぐみと小畑健の人生の縮図だろうかと想像しながら見る以外にあまり楽しめなかった。

 

ただ、原作者として漫画家になれると言うのはとても夢のあることだった。

そのくらいから(ほんとはもっと前からかもしれないけど)モノ創りに興味を持ち始めた。

中学二年になると、授業中に自作の小説を書いたり、作詞をしたりしていた。

今でこそ黒歴史だけど、ちょっとした誇りもある。

高校生に上がると、その気持ちは音楽へと昇華された。

もともと楽器は好きで、小学校の学芸会ではドラムを披露していた。

そして高校に入ってすぐに軽音楽部にはいる。

しかし部活のメンバーと折り合いがつかず、3ヶ月でやめた。

そのあたりで始めて手にしたスライド式の携帯電話で、インターネットの世界にハマっていた。

小説を書いては投稿したり、友達に送ったりしていたが、それもまた誇りある黒歴史

高校二年にあがり、同じクラスにいた軽音楽部に所属していない奴に誘われるがままにバンドを組んだ。

これがなかなかに楽しかった。

その辺から僕は音楽が生活の一部になった。

この時のバンドメンバーにも影響を受けた。

僕のもともと適当だった喋り方に拍車をかけ、人生を1.3倍くらい楽しくさせてくれた。

ファッションに目覚めたのもこのあたり。

メンバーの影響は割と強烈に今も残っていると思う。

高校卒業してもしばらくはバンドをしていた。

家庭の事情で進学はしなかった。

ひたすらバイトしてバンドやっていた。

しかもこの時期、twitterにもどっぷりハマっていた。

承認欲求を得ようとしまくっていた。

だんだん廃人のようになると僕は感じていた。

 

そんな夏休み、高校の同窓会に行って、同じクラスだった奴となんやかんやで付き合うことになった。

これもかなり大きな転機。

あの彼女に会ってなかったら多分今でも廃人のような生活をしていたと思う。

それを奮い立たせてくれたというか。

とても感謝している。

その彼女の勧めでお金を貯めて専門学校に行くことにした。

入学する前に別れましたが笑

 

僕はこの専門学校で様々なことを学んだ。

得られたものはわずかだけど、考え方を変える出来事と言うか、人物に出会えた。

いつか記事にしようと思ってることだけど、物語を書く上で、見る上で重要なことについて。

ここで出会った講師にはそんなことを学んだ。

それはただ、物語だけに生きる話ではなくて、日常生活においても大切なことであった。

僕の偏らないように考える癖っていうか、自分に都合のいいことだけを話さない癖、自分を客観視するチカラはこの人のおかげで少しばかり伸びた気がする。

考え方は人それぞれだと言うことを痛感した2年間だった。

 

 

 

もうちょいあるけど、影響を受けてきた人やものはこんな感じだと思います。

長くなっちゃったね。

結局、俺がどうしてこうなったかっていう詳細はあんまり書いてないんだけど、いつか記事にできるところはしていこうと思います。

よんでくれてありがとう。

またね。

 

 

由良

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これから始まって行く当たり前の日常。

それを応援する歌です。

当たり前の日常こそつらいものです。

それを頑張ってこなしてるみんなえらいよ。

ちょっとくらい誘惑に負けてもいいと思える。

そんな歌です。

みんなもこの歌を聴いて笑って癒されて元気をもらってください。

あけましておめでとうございます。

えぇ、どうも。

 

年末年始のイベントの忙しさにかまけて更新をおろそかにしてしまいました。

それでもなお今日はいつものような内容ではなく、軽い挨拶程度にしようと思ってます。

簡単ではありますが、お付き合いよろしくお願いします。

 

 

 

年始といえば、おせち料理ですよね。

おせち料理とかって実は子供にはあまり人気がないものが多くて、いまいちパッとしなかったりします。

ただ、大人になるにつれて、味覚が変わったりで食べられる料理が増えて行くという方も少なくはないでしょう。

昔はほとんど手をつけなかった煮物やらなにやらも、最近ようやく美味しいと感じるようになりました。

僕は割と好き嫌いが多い方なのですが、最近それを改善していこうと結構頑張っているのです。

食わず嫌いしていたものや、久しく食べていなかったものを食べてみて、意外と食べられるものがありました。

中でも衝撃的だったのが、もんじゃ焼き

お好み焼き、たこ焼きが嫌いなので、ついでにもんじゃ焼きも避けていたのですが、機会があり食べて見ると、案外美味しく食べられました。

あとはこの間、数の子も食べてみました。

好きかと言われたらいまいちですが、出されたら食べられないものではないと感じました。

少しずつ食べられるものが増えていって、食事を楽しめる幅も広がったのではないでしょうか。

 

僕は基本的に、食事は食べる人に選ぶ権利があり、好き嫌いしてもよっぽどのことがなければ栄養的にも他で補えるため、それほど困らないと思っていました。

でも食べ物を残す行為そのものが許せないので、周りの人にあげたり、無理して食べていました。

それが社会人になって、上司は同僚と食事をするとき、どうしても嫌いなものでも無理して食べなければ、と思うのです。

なので好き嫌いを減らそうと思うようになったのです。

なんとなく好き嫌いをするのは子供っぽいですし、なんでも美味しく食べられたら、より楽しく食事ができるんじゃないかなぁと思いながら、これからも嫌いな食べ物を克服していこうと思います。

 

 

 

 

由良

ダブルバインド

えぇ、どうも。

 

昨日が年内最後の仕事で、ようやく僕も仕事納めと言えるようになりました。

年末年始の予定がまばらですが、そこそこに休みを満喫しようと思います。

またすぐに働くことになりますが...。

 

 

そんなわけで前回の記事でちらっと触れた事について話していこう思います。

一応前回の記事も置いときますね。

Foot in the door. - おとしもの

 

前回お話ししたFoot in the door.

営業マンの「玄関に足を踏み入れた時点で勝ち」からきてるマーケティング用語。

小さな要求から達成していけば最後に構える大きな要求も答えてもらいやすくなる、と言ったものです。

これは恋愛にも応用できますという話をしました。

マーケティングで使われる人の心理的要素は、大抵人間関係でも役に立つものです。

今回紹介するのは、その中で僕が1番最初に知ったマーケティングにおける心理効果の利用です。

それが「ダブルバインド」と呼ばれているものです。

言葉自体はもしかしたらなんとなく知っているかもしれませんね。

一応言っておきますが、パ○ドラの話じゃないですからね。

 

では解説していきますね。

まず心理的効果についてざっくり言いますね。

日常的に無意識に使っている人も多く、そのほとんどがダブルバインドであるとは無自覚。

ダブルバインドは直訳すると、二重拘束。

どういうことかというと、人は大抵2つの選択に迫られた時、その2つのどちらかしか選べなくなってしまう。

最もわかりやすい例えで使われるのは、

「あなたは犬派ですか?猫派ですか?」

と言ったものだ。

この質問をされた人は他にも好きな動物が数多くいるにもかかわらず、

「どちらかというと犬かなぁ」と考えてしまうのです。

そうしない人ももちろんいるけれども。

とまあダブルバインドはこういうものです。

ダブルバインドが発生してしまう条件としては、

2人存在しそのどちらかが1つの選択肢と矛盾した選択を迫ることで発生する。

ちょっとわかりにくくなったかな。

...では、こんなことありませんか?

「怒らないから言ってごらん?」

に対して正直に話すと怒られた。

これもダブルバインドなのです。

黙り込んで怒られるか、正直に話して怒られるかの2つの選択肢しか無くなるわけです。

無自覚にしていそうですよね。

こうなった時、心理状況は「何をしたって怒られるんだ」となってしまう。

実はこれ、統合失調症を引き起こしてしまう原因となるのです。

課された選択肢に矛盾が生じてしまい、さらにそれ以外の選択肢が与えられない。

他にも、「なんでも好きなもの食べなよ」と言われ、食べていると「遠慮くらいしなよ」と言われてしまう。

これもダブルバインドで、統合失調症を引き起こしかねないケース。

なんでも食べていいから食べようとして、怒られる。

食べないでいると、遠慮しなくていいよと言われる。

ここに矛盾が生まれる。

日本特有の「それくらい察してうまくやれ」と言うのは、重大な精神障害を引き起こしかねないのです。

 

さあ話がおおごとになってまいりました。

ダブルバインドについて少しは理解できたでしょうか。

ではここからは 、そのダブルバインドをうまく利用しているケースや、具体的な活用方法をお話ししていきます。

 

まず、ダブルバインドの特徴である、二択に迫る前に、2人である重要性についてお話しします。

1:1の会話の場合、視野が狭くなるのは当然のことですが、ダブルバインドにおいて、他人が干渉すると大抵はそのトラップに気がつけるのです。

主観でいるうちは自分の置かれている状況しか分析できず、二択にしか目が行かなくなるが、客観でいる方はそれ以外の選択肢を考えやすいのです。

第三者によって新しい選択肢が作られたりすることもあり、ダブルバインドは1:1が最も効果的。

ここで前回同様に、お洋服屋さんの例え。

あなたが気になる服を手にとって合わせているとします。

そしてそれを買うかどうかで迷っているとします。

そこへ店員さんが声をかけてきます。

「それいいですよね。 シンプルで着まわしもしやすいです」

といった感じに、選んでるものを褒めます。

そうするとあなたは、

「でも○○が...」

と、迷っている理由を話します。

そして店員さんは待ってましたと言わんばかりに

「それでしたらこちらはいかがでしょうか」

と言ってきます。

そして持ってこられた服がよっぽど酷いものじゃなければ、その服とあなたが最初に選んだ服を照らし合わせながら「どっちがいいかなぁ」と言う心理状況になっていきます。

この時点で、最初の「買うか買わないか」の選択肢から、「どっちの服を買おうかな」となり、どちらかを買うこと以外の選択肢がなくなってしまうのです。

お洋服屋さんはこうしていろんな心理的方法でお客さんをうまく誘導して服を買うようにしています。

もちろん、本当にオススメの服があって、天然でダブルバインドしてしまう愛せる店員さんもいます。

なので一概にこれらを悪として決めつけるべきではないですよ。

 

さあでは次にこれらの対策です。

もしも、これってダブルバインドかも...?とか、Door in the foot.かも?って思ったら、まずは自分1人になり、自分を客観的に見ることが大切です。

その結果、買うにしても買わないにしてもそれはあなたの選択です。

また、信頼のできる友人に意見を聞くというのも有効な対策です。

しかし、友人までダブルバインドに飲み込まれてしまうケースもあるので、ある程度勘のいい人を連れて行くといいでしょう。

 

さて、ではここからはあなたがダブルバインドを使用していくにあたってです。

私にも使えるのかなぁって思ってるのかもしれませんが、結構簡単に使えます。

使い方はかなりライトで、お洋服屋さんがやるような、「しない」選択肢を潰すだけなのです。

あなたが恋焦がれる人と約束をする時、○○日暇?と聞いてもなかなか予定を取り繕ってくれません。

そこでダブルバインドを応用するのです。

「明日と明後日どっちなら暇?」

と言った感じですね。

これなら、単純に当たる可能性が2倍になるのと、断るという選択肢を言わないことで、よりいい答えが返ってきやすくなるのです。

もう少し範囲を広げて、「今週と来週」くらいでもいいかもしれない。

ただ、1ヶ月とかになると、直前に断られやすくなるので注意が必要ですが。

 

 

いかがだったでしょうか。

なんとなく身に覚えのある話や、日常的に役立ちそうなこと、気をつけなければならないことをお話ししてきました。

僕はこのような心理的なこととか、人間関係に応用できるマーケティング理論が好きなのです。

大抵は暇な時に見るwikipediaでの情報ばかりですが。

 

最後になりますが、今年の9月から始めて、ついに年越しを迎えることができました。

個人的には長続きしてると思う。

この調子で続けて、過去の自分を見て悶々とする日がくるのを楽しみにしています。

すでに黒歴史的な感じのものもありますが...。

それも全て消さずに残して置いて、いつか自分を見つめ直す機会があった時に「これも僕だったんだ」と思い、悩んでいることの参考とかになればいいなと思ってます。

 

長くなってしまいましたが、年内の更新はこれで最後になります。

本当は月に1度読み物を投稿したかったのですが、思ったように筆が進まず、脱線しながら長々と書いてしまっています。

1月中にはあげたいのですが、1発の投稿で完結できる気がしないので、やり方を考えつつ、そちらもお楽しみに。

 

それでは皆様、今年もお世話になりました。

来年もよろしくお願いします。

 

 

由良

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こっちもありますよもちろん。

いつものです。

 

今年は本当に色々なことがあった年でした。

何か焦燥感に駆られ、いつもせわしなく生きようとしていましたが、なんでもない日々の良さとか、僕には今恋人はいませんが、身近にいる人の大切さを歌っています。

とてもありふれているけど、ありふれているからこそそれだけ大切なんだと思う。

どうぞお聞きください。

 

 

Foot in the door.

えぇ、どうも。

 

そして、メリークリスマス。

街はキラキラと輝いていて、見ていて癒されるような気がするけれど、1人で見ていても虚しいだけだなぁと思いながらスマートフォンを向ける。

なんの思い出にもならない1枚がライブラリーに残る。

余計に虚しくなってきたので、男だけでイルミネーション見に行ったところ、ひたすらテンションが下がりました。

死期は近いのかもしれない。

 

 

それでですね。

今日はね、僕の持っている知識をみんなにお披露目しようと思いまして、

タイトルにもある通り、Foot in the door.という心理テクニックについてお話ししようと思います。

 

マーケティングでよく使われているテクニックです。

直訳すると、「玄関に足を踏み入れる」って感じの意味になります。

これが一体何を言っているのかというと、

「セールスマンが玄関に足を踏み入れた時点で契約を取れたも同然」ということから来ている言葉です。

もっと詳しく言うと、大きな目的を達成するために小さな目的を先に用意し、それを受け入れた場合、次の目的を達成する確率が格段に上がるのです(心理的に)。

徐々に要求を高くしていき、最後にある目標までを断りづらくする。

 

...みなさんはこんな経験がありませんか?

 

お洋服屋さんに何となく暇を潰しに見に行って、なんとなく今欲しいセーターを物色しているとします。すると店員さんに「セーターとかお探しですか?」と聞かれます。

そして実際にセーターを物色している手前、嘘がつけず「はい」と答えます。

店員さんは「それでしたらこちらの商品はいかがでしょうか」と話を広げていきます。

そうやっていろいろとオススメされたあと、店員さんは「試着してみますか?」と聞きます。

(まあ、試着くらいなら...)と思ったあなたは着てみることにします。

そしてそれを着替え終わるかどうかのタイミングで店員さんは声をかけて来ます。

着替え終わってカーテンを開けたあなたに「とてもお似合いですね!」と店員さんは褒めます。

そうやってどんどん断る理由を潰していき、あなたはよく分からないままその服を買ってしまいます。

暇を潰しに来ただけなのに、思わぬ出費をしてしまい、困った。

 

どうですか?ありませんか?

恥ずかしくないですよ、誰にでもあり得ることですから。

この場合ですが、声をかけられて、応じた時点で店員さんは服を買わせるところまで見えているわけです。

これがFoot in the door.です。

 

もう少し簡単な例を挙げてみましょう。

道行く人にご飯いきませんかと声をかけていきなり応じる人は少ないと思いますが、

道を聞き、分からないからついて来てくれと言いったあとなら、確率は格段に上がるような気がしませんか?

これは、人は一度要求を飲むと次も応じてしまうという特性を利用しているからなんです。

 

 

なぜ僕がこんなことを話しているかと言うと、

実はですね、このテクニック

恋愛にも使えるんですよ。

Foot in the door.の大事なところは「小さな要求から少しずつ叶えていけば、最後に待ち構える大きな要求を飲む可能性が格段に上がる」と言うところだ。

例えば、好きな人とデートに行くと言う目標をいきなり遂げようとすると、なかなかハードルが高い。

そこで、まずは小さな目標をつくる。

最初からどの程度の仲なのかによるけど、ペンを貸してとかお菓子一口ちょうだいとかそう言うレベルからでいい。

そこから一つずつ段階をあげて、連絡先を聞き出すことに成功したとする。

ここまで来て焦ってはいけない。

Foot in the door.は一度頭がリセットされてしまうとあまり効果がない。

なのでもう1度ゼロから小さな要求をジャブで入れていく。

そうすれば、最終的な目標のデートは格段に確率が上がる。

もちろん、心理テクニックだけではどうしようもないことはあるのですが、それを利用しないよりかははるかに成功するでしょう。

これがFoot in the door.です。

 

ちなみに、人をデートとか遊びに誘う時にオススメなのがダブルバインドという心理効果です。

これは今度の記事にしようかなと思うので、その時の更新を待ってくれればと思います。

 

記事にしました!→ ダブルバインド - おとしもの

 

 

 

 

おまけに、

Foot in the door.ににてるもので、

Door in the face.と言うのがあります。

これは前者とは全くの逆で、要求を達成するために、より大きな要求を用意し、それが断られてから本当の要求を飲ませる。

そんなに仲良くない人に、「家に遊びに行っていい?」って聞かれて、断ったら「じゃあご飯行こう」と言われたとします。

あなたは「まあ、それくらいならいいか」という気持ちになりやすくなるのです。

もちろんそれでも断ることができる人はたくさんいますけどね。

あくまで参考程度です。

 

 

 

以上になります。

心理テクニックと言うのは、意外と身近に使われていて、それを応用することであっと驚く効果が得られたりするものなのです。

クリスマス前に教えてくれよと思った方はすみません。

また来年がありますよ。

ぜひ活用して、好きな人と幸せな生活を掴んでください。

 

それでは。

 

 

由良

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クリスマスなのでクリスマスっぽいものを。

僕の世代だったらほとんどの人が知ってるのですが、これもう13年前なんだね...。

クリスマスソングの中ではかなり好きな曲です。

ダウンタウンの浜田さんの歌もなかなかいいですよ。

 

 

 

いま自分が何をするべきか?

えぇ、どうも。

 

仕事納めも目前。忘年会シーズンにも突入してるので、会社はバタバタとしている。

同時に、ヨドバシカメラトイザらスで地味な色のコートを着たサンタさんがたくさん並んで、それぞれの家庭に幸せを与えるために頑張っている。

そんなことをふと考えながら、雪でも降ればいいなぁと思う。

 

 

さてさて

僕は今人生の目標の一つに来ている。

と言うのも、僕は中学生くらいの頃からボヤァっと描いていた未来のビジョンみたいなものがあった。

23歳くらいには人として、男性として自分に納得できるようになっていて、26歳くらいには仕事が波に乗り、時間こそなくても、収入にも余裕があるんだろうと。

もしその通りになっていれば、僕はもう少し幸せな顔をしていたと思う。

今僕は23回目の冬を迎えていて、自分と言う存在に嫌気ばかりさしている。

死にたいとは思わないが、殺してほしいとは心から思う。

死ぬために思い起こすことすらめんどうだ。

自分に自信なんて、きっと3年後も10年後もついていないんだとおもう。

働いて、なんとか社会を回す歯車の一つになれたはいいが、どうにもいろんなことがいっぱいいっぱいで、うまく合わないせいか、ギシギシと音を立てているような。

いつかぶっ壊れちまうんじゃねーかなって思いながら生きてる。

正直、これといって何が辛いわけでもない。

仕事もそこそこに落ち着いているし、とてもホワイトな職場だとは思う。

交友関係にも恵まれている。

連絡をすれば必ず返してくれて、計画を立てればしっかり集まってくれる人もいて、計画を立てずに突然呼んでも来てくれる人もいる。

一体何が不満なんだろうか。

自分でもわからない。

ただ僕は、生きているだけ。

自由度の低い世界で生かされているだけ。

歳を重ねるごとに、去年と比べてどこが進歩したんだろうと考えて、全く進歩していない自分の姿が見える。

歳をとるのが本当に怖い。

 

好きなものはある。

それなりに楽しめる趣味もある。

毎日楽しいとは言わないが、本当に楽しい日は心から笑っていると思う。

でも気がつくと、ひとりぼっちな自分がいて、電池が切れたように絶望する。

自分のしていることが、正しいのかどうか。

したことをしていなくてもそう思う。

例えば、ご飯を食べるためにお金を使うことが、正しいのかどうかわからない。

最低限の賃金で生きていけるのに。

 

大抵、僕は何かをした後にひどく後悔する。

本当に些細なことで。

発言や行動、散財、時間の使い方。

...多分ほとんどこれらで後悔している。

本当に、何をすれば後悔をしないのか。

いくつになってもわかりはしない。

なすべきことも、目指すべき目標もわかりはしない。

なにせ、過去の目標は到底叶いやしない。

下手したら3年も立たずに仕事を辞めているかもしれない。

さらに目標から遠ざかり、目の前の進路さえも失う。

敷かれたレールからも外れ、ただ何もしていない自分を苦痛に思うことだろう。

せめてそうはならないように、なんとかしがみついて、社会に順応している。

現状を甘んじて受け入れ、その中で精一杯生きている。

大きな良い出来事もなければ、大きな嫌な出来事もない。

躍進もしなければ墜落もない。

ただ、いつかそんな当たり前に生かされているだけの日々を心から幸せだと思う日が来るのだろうか。

それはいくつの時だろうか。

そのために僕は何をすべきなのだろうか。

 

 

僕は今の生活に満足などしていない。

でも何かをしようと腰をあげるのも億劫で、なかなか動かない。

だから僕は現状維持している。

でもこれだけは守るべきと言うか、大切にするべきだと思うことがある。

それは今そばにいて、僕と一緒に笑ってくれる人たちだ。

もしも大きな良い出来事があれば、共に喜んでくれる人がいてくれた方がいい。

その逆に嫌なことがあっても、どん底に手を差し伸べてくれるかもしれない。

そうでなくても、このまま笑っていれば、当たり前に生かされてる日々も、幸せだと思える日が来るかもしれない。

そのどれもに欠かせない存在が、いま関わってくれる人たちだ。

 

何度も言うけど、僕は目標も何もない。

きっとそういう人はたくさんいる。

だからこそ、目標ができるまで現状を維持し続けることが今なすべきことなのかもしれない。

同じ人たちと関わり続けることは思っているよりずっと難しい。

僕はそれができてることを誇りに思うべきなのかもしれない。

そして僕と関わり続けている人も同じように、誇りに思うべきだよ。

 

 

 

 

由良

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初めてバンドでやろうとして、当時のメンバーでは難易度がすごく高くて諦めた曲。

そして、姉の影響で好きになったRADWIMPSで1番好きな曲。

歌詞の作りに魅力された。

多分僕が何年かけてもこんなことは言えないんだろうという事を歌っていて、初めて聞いたときはすごく感動したことを今でも覚えている。