おとしもの

頭の中のものをぜんぶ形に出来たらいいなぁ

自信

ええ、どうも。

 

学生はもうすぐセンター試験ですね。

この時期になると、落ちるとか滑るとか言うワードに敏感になると思います。

僕は全く気にしてないのですが、もし僕が落ちる滑るを連呼したことで受験に失敗したと思うのなら、僕を責めてくれてかまいません。

それも無視すると思いますが。

僕も一応センター試験受けましたが、希望の大学には確か届いてなかった気がする。

ちゃんと勉強はするべきですね。

 

 

さてさて

受験や試験など、自分の力を試される機会で、 自信と言うのはとても大事です。

自分が出来ると思わないと成功はなかなかしないと思います。

ですが、今日はそんな大それた話でも、誰かに自信をつけてもらう話もしません。

力を試す場ではなく、もっと身近な話。

 

このブログでも良く言っているのですが、人には考え方がそれぞれあって、誰かにとっても正解も誰かにとっては間違いだったりする。

また、必ずしも正解である必要はなく、自信が納得していれば、人と違う意見にも価値がある。

世の中も割とそういう流れが来ていて、昔に比べたらかなり考え方に多様性がある時代だと思う。

他人は他人で、自分は自分。

人として互いに尊重し合うことの出来る人が増えてきている気がする。

なんて素敵な世界だ。

 

しかし、同じように、他人は他人で自分は自分。

自分が嫌だった時に怒りをあらわにして相手を叩きのめそうとする人もいる。

自己中心的な行動。

これもたぶん、多様性が生み出したものだと思う。

自分が絶対的に正しい、他人のやり方が間違っている、だから自分はこんなにも苦労している。

そういう考え方。

怖くて近寄りたくないね、そんな人。

 

 

さてこれらのことを踏まえて、

どう生きていくのが最も生きやすいか、世渡り上手か。

無難なのか。

自分で言うのも何だけど、僕は思想的に無難な生き方をしていると思う。

どこが?とか、何が?と言う疑問が湧いてきた人には申し訳ないが、ただ僕がそうだと信じたいだけだ。

確固たる自信もクソもない。

ただ一つ言えるのは、僕はほとんど断言しないと言うことだ。

これは現代を生きる上でかなり重要なことだと僕は思っている。

多様な価値観が存在する世界で、自分の正しいものだけを声高に叫んでいても、一部の人しか聞き入れてもらえないでしょう。

受け入れられない人がほとんどなのだから。

しかし、「Aということがあるんだけど、Bもある。かと言ってCも間違いじゃない。」と言うような、どの視点からの意見もカバーするような語りは最近とても聞き入れやすい。

もちろん、ただ優柔不断なわけではなく、それぞれの長所や短所をまとめた上で、自分の意見を混ぜていく。

あくまで他の意見を知った上で、僕なら私ならこう考えるだろうと言う、ある意味言い訳的な部分が見え隠れする。

僕の場合、○○だと思う、○○な気がするというように、あまり断言をしてきていないつもりだ。

これらの話し方は基本的に「個人的には」や「他の意見も知っていて敢えて」のような意味を含んでいる。

あくまで他者を否定することなく、他者に意見をぶつける。

言い切られてしまったら、他者は自己肯定感を得られない。

自分は間違っているのかもしれないと考えてしまう。

はたまた、自分のことを全く理解してくれないとさえ思うかもしれない。

これでは多様性にかける上に世渡りもうまくできない、無難とは言えない。

ただこれも言い切ってしまうと、言い切る派の人は自己肯定感が得られないので、あくまでこれも僕の意見だと言うことは認識しておいてほしい。

自信があることはとても良いことだし、その自信が脅かされるような間違いがあっても、それに気づけたなら儲けもんだと思う。

僕は自分に自信がないので、いつも言い訳的な言い方として、言い切ることはない。

非常に肩身の狭い言葉遣いをしてる。

 

しかしながら、こうした話し方をする人は最近とても多く感じられる。

世の中は●●かもしれないけど「自分の意見」は○○だ、と言うように、他人を絶対的に否定せず、自分の考え方に共感してもらうためだけの発言。

自分が間違いじゃないと認められたいがために、否定的な言葉を使わずに、他者に自己肯定感を与える。

そして共感してもらえた時、承認欲求が満たされる。

なんだ、やっぱ優しい世界だね。

誰も損してないような気がする。

ただ、承認欲求を満たすために、だんだんと世論に流されてしまう人もいなくはない。

そしてだんだんと固執した考え方も生まれたり、固定概念にとらわれはじめ、否定的で強い言葉を使うようになる。

ごく一部の人だけだけどね。

 

 

いまのこうした、断言できない人が増えた背景を僕なりに考えてみた。

なぜ断言が出来ないのか。

予測を3つ立てる。

まず1つめに、断言してしまうと、共感を得る可能性が減ってしまうからだ。

偏った意見というのは同調されづらく、扱いづらいからだ。

2つめは、おそらくこれが1番大きな原因だと思うけど、もしも間違っていた時、取り返しがつかなくなることがあるからだ。

よくあるのは、クレームやネットの炎上。

これらは、自己やそれに近い何かを強く否定された時に最も起こりやすいことで、それを避けるためには、断言せずひっそりと自分の意見を小さな声でつぶやくのだ。

それで一部の人から共感されれば良いのだから。

最後にそもそも自信がないから。

2つめにも付随するけど、確信がないことを発言するのはとても恐ろしい。

特に今の時代、多様性のある考え方はクレーマーにもそうだ。

発言の自由は制御が効かなくなっていて、自分が気に食わなければ自分のためだけに世界を変えても良いとさえ思っているだろう。

最近も「そんなクレーム言い出したらキリがないな」っていうクレームが多くて、生きる上での自由度が低い。

やれることの少ないテレビはつまらなくなり、若者のテレビ離れというのも納得ができる。

多様性が増えてるはずなのに、自由度が低い世界。

なんとも生きづらい世界だ。

優しいはずなのに。

 

 

 

最後に、

最近はインターネットが便利になりすぎていて、誰の目にも個人の発言が目につくようになってしまった。

そんな中、無難に生きていくには、見えない誰かに気を使わなければならない。

常に誰かの視点に立って考え、そんな自分を俯瞰的に見て、自分の主張がいよいよ減っていく。

他人に気を使うあまり、いっそAIの方が人間的になっていくんじゃなかろうかと思うばかりです。

そんなことにも負けず、たとえ口では意見を捻じ曲げようと、あなた自身の根底にある芯のようなものだけは失わないように、上手いこと生きていけたらいいなと思います。

たぶん本当の世渡り上手って言うのは、他人の意見に流されたふりをしながら、「この人は一体何を言ってるんだろう笑」と心で嘲笑できる人だと僕は思っています。

 

 

 

 

 

 

 

由良

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二度目の登場の古川本舗です。

前はボカロだったけど、この人の声もとても温かみがあってすごくいいですね。

眠る前に聞くとびっくりするほどぐっすり眠れます。